(7月11日付朝刊に掲載した「ことばの広場」の拡大版です)

 5月、歌手の西城秀樹さんが63歳で亡くなりました。その記事の中にあった「新・御三家」。若い同僚は誰が誰だかピンと来ない。これはまずい……。「御三家」を根本からお伝えしなければならない時代がやってきたようです。

 どの辞書でも尾張・紀伊・水戸の「徳川御三家」が由来。有名なのが「この紋所が目に入らぬか」でおなじみの水戸光圀公の出身である水戸徳川家。水戸は代々「副将軍」の立場で、将軍家から跡継ぎがいない時、尾張か紀伊の徳川家から将軍を出すように、というほかの親藩とは「別格」の扱いとなりました。もともと「御三家」という呼び方をしていたわけではないといいますが、中京大の白根孝胤教授は「五代将軍綱吉の時代から『御三家』という言葉が使われるようになった」と説明します。

 また、「もともと日本人は『3』が好きなんです」と話すのは、日本三大協会代表で放送作家の加瀬清志さんです。中国伝来の思想を背景に、日本は一対一の対決より三つのバランスによる「融和」で高め合うことを好む傾向にあるとのこと。三種の神器、相撲の三役、野球の三冠王、はたまたミスタージャイアンツ長嶋茂雄さんの背番号「3」――。そして「日本3大夜景」など「3大○○」は日本人の大好物だ。「日本人は『おや、まあ、なるほど』と3回うなずいて納得する文化。だから3人や三つで売り出すことが多い」と加瀬さんは言います。

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西城さんの通夜の式場に飾られていた「新・御三家」のパネル写真

 その先駆け。昭和歌謡の元祖「御三家」は、橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さんの3人のことを言います。その後に続いた西城さん、野口五郎さん、郷ひろみさんの3人が「新・御三家」。あくまで「御三家」は橋さん、舟木さん、西郷さんの3人だということをいま一度、心に深く刻んでおきたいところです。

 「潮来笠」で最初にデビューした橋さんは「雑誌が作ったキャッチコピーでしたけど、うれしいことに一番先輩だった。お互い頑張れましたね」と振り返ります。一方、詰め襟学生服姿がまぶしかった「高校三年生」でデビューした舟木さんは「三者三様に迷惑だったんじゃないでしょうか」とあくまでクールな硬派路線を貫きます。2人を追いかけて「君だけを」でデビューした西郷さんは「僕は永遠の年下で、『はいはい』と従っていればいい気楽な立場。でも歌う時は一番だと思っている」と「星のフラメンコ」のリズムにあわせてノリノリです。

 みな70歳を超えてもなお、「御三家」として芸能界の「別格」として君臨。全国各地で精力的に公演活動を続けています。そして、日本各地のスナックやカラオケ店では、「御三家」の歌を絶唱し、お酒と自分に酔いしれる、「御三家」たちになりきった私たちがいます。

「秀樹で感じた『時代が変わる』」 御三家の1人・西郷輝彦さん

 「御三家」の1人、西郷輝彦さん。当時の思い、亡くなった西城さんとの思い出を寄せてくれました。

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 橋幸夫さんを初めて見たのはNHK紅白歌合戦のテレビの画面。当時、僕は鹿児島の中学生でした。高校1年の時に家出をして、東京で受けたレッスンの練習曲は舟木一夫さんの「高校三年生」。歌謡界は橋さん、舟木さんの絶頂期でした。そこに僕がデビューしてトリオが完成、「御三家」と呼ばれる時代が始まりました。とは言っても「御三家」なるグループを結成したわけではなく、3人が会うのは、暮れや正月番組、雑誌の表紙撮影くらいのものでした。初めて3人がそろって食事をしたのが約30年後の全国ツアーでのことですから驚きです。

 3人の中で、僕は永遠に年下の後輩でありますから「はいはい」と従っていればいいという気楽な立場なのかなと思いますが、もちろん歌う順番が来たら「俺が一番」みたいな負けん気は持っています。そういう点では永遠のライバルなのかな、と思います。

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郷ひろみさんは「新・御三家」の1人

 新・御三家の出現には(御三家の)3人ともさほど不安は感じていなかったと思いますが、郷ひろみさんはアイドル、野口五郎さんはミュージシャンと考えた時、亡くなった西城秀樹さんには、僕には忘れられない思い出があります。

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野口五郎さんは「新・御三家」の1人。デビュー曲は演歌だった