郷愁を呼び起こすもの

 鉄道に関連するさまざまな分野のなかでも、駅に興味を持つようになり、駅とその背景を絡めて考えるようになったのは、前回述べた「福岡駅風土記」によるところが大きい。誰でも、折にふれ、繰り返し読む本があると思うが、小学生のころから現在に至るまで、約40年間、文字どおりの「座右の書」となっている。

 「駅」という言葉で、同僚の一人は「郷愁・故郷」をイメージするという。筆者も同感で、だからこそ、駅にこだわって、全国あちこちの駅を訪ねている。すると、そのなかでも特に、歴史を感じさせる駅に出合うことがある。東京駅のように「赤レンガ造りで、建築家の辰野金吾が設計した」というのではなく、なんとなく人々の息遣いが感じられるというものである。

故郷への入り口

 「郷愁・故郷」といえば、筆者は夏になると、子どものころの思い出がよみがえる。夏休み、生まれ故郷の長崎へ鈍行の夜汽車で向かった。途中、明け方に停車する一つの駅が気になっていた。長じて、そこが重要な歴史を持つ駅であることがわかった。

 当時、長崎行きの夜汽車は、その駅に午前4時すぎに停車していた。客車にはエアコンなんかはついておらず、窓を開け放して走っていた。車窓から暗闇のなかにぼんやりと「はえのさき」という駅名標が見えたのを覚えている。この夜汽車は筆者が高校卒業の年に廃止された。

 長崎県佐世保市にある大村線の南風崎駅。70年前から約4年半の間、ここから数多くの引き揚げ列車が出発した。終戦の年の1945年10月から50年4月まで、旧満州や朝鮮半島、東南アジアなどから、約140万人の復員者と引き揚げ者が佐世保市の浦頭(うらがしら)港に上陸、その後、現在のハウステンボスの場所にあった引揚援護局まで約7キロを歩いた。手続き後、約3キロ先の南風崎駅から列車に乗り、それぞれの故郷に向かった。この駅は祖国へ戻ってきた人々を受け入れ、それぞれの故郷へ送り出した駅として歴史にその名を残している。