■「単品ど迫力」の勝負
関西の百貨店を皮切りに始めた総菜ビジネスは、路面店で築いた「ガストロノミ」ブランドの成功や首都圏への進出で軌道に乗りました。スモークサーモンや手作りハムを主体とするギフトもよく売れるようになり、1980年代にロック・フィールドの事業はどんどん安定感を増していきました。
そこで私は、次の一手に出ます。
ヒントをくれたのは、神戸を代表する洋菓子会社の幹部でした。日ごろから指導してくれて、私は「先輩」と慕っていました。ある日、先輩が私のところへやってきて言います。「ロック・フィールドも『単品ど迫力』で勝負してはどうや」と。
ん? 「単品ど迫力」?
聞き慣れない言葉ですね。実はこの少し前、この洋菓子会社は、こだわりのプリンを大ヒットさせ大幅に売り上げを伸ばしていました。プリンは洋菓子の定番。定番をドーンと売る。これを、先輩は「単品ど迫力」と呼んでいたのです。
なるほど、と思いました。神戸・南京町では大繁盛している豚まん屋がありました。姫路の今川焼き屋や鎌倉のサブレ、横浜のシューマイもそうですが、愛される定番を持っているところは強い。
◆神戸コロッケ誕生へ
ロック・フィールドができる「単品ど迫力」はなんだろうと考えました。思いついたのが、食卓に並ぶ総菜の定番。コロッケです。
コロッケは大正から昭和にかけて日本化した欧米食の代表。市場で肉屋が揚げながら売る庶民の味として浸透していました。
80年代は高度成長からバブルへと経済はふくらみ、欧米化が加速する市民生活に冷蔵庫や電子レンジが入り込み、食の工業化が進んでいました。冷凍食品でも、クリームコロッケが人気になっていました。
もし、神戸のハイカラでファッショナブルな街の雰囲気をまとったコロッケをつくれば、これが、「単品ど迫力」になるのではないか。
しかも、冷凍クリームコロッケ全盛の時代に、あえてイモコロッケ。私はこういう時は多数派よりも、広がる可能性を秘めた少数派に魅力を感じます。
単なるイモコロッケではダメです。しっかりした世界観がいる。ジャガイモは北海道で厳選したイモ。それに神戸の肉と淡路島のタマネギを使おう。生産者履歴を特徴の一つに、職人が手間ひまかけてつくることも約束しよう。パッケージやロゴも、腕利きのアートディレクターに頼んでうんとオシャレにしてもらおう。
これでどうや、と89年に神戸・元町のレストランがあった場所に「神戸コロッケ」を出店しました。
狙いはズバリ的中しました。食材にこだわった味は「おいしい」。レトロ調のパッケージや招き猫をあしらったロゴは「かっこいい」「かわいい」。従来のコロッケ観を覆す世界観が、受け入れられました。うれしかった。
初日から完売。その後も行列のできる店としてメディアに取り上げられました。まさに、「単品ど迫力」です。
◆つれない百貨店
手応えを感じた私は、勢いに乗ってデパ地下にも出ようと百貨店の担当者を訪れました。ところが、予想外の反応です。
理解されない。十数年かけて高級デリカテッセンを広めてきた我々が「なんで今さらイモなんや」と。担当部長は私をつれてデパ地下を歩き、すでにいくつかコロッケを売る店の前を通って、「間に合ってます」と。
私は反論しました。「バブルの今だからこそ、ノスタルジーで大正のレトロな味とデザインが受けるんや」「百貨店は、古き良きこだわりの味を大切にするときじゃないか」
全然ダメ。断られるというより、無視です。
そこを何とか、と大阪高島屋の幹部に直談判し、2カ月だけやらせて欲しいと頼み込みました。「設備投資も自分でやるし、失敗したら責任をもって撤退する」と。
それで、ようやく「やってみたら」となり、始めてみると、1日の売り上げが50万円の大ヒット。その後、お断りになった百貨店からも出店要請が相次ぎました。
神戸コロッケの爆発的人気は、ロック・フィールドにいくつかの幸せをもたらしました。コロッケの売上高は90年の20億円から、93年に48億円に拡大したのです。コロッケだけで、全売上高の2割強を占めました。会社の知名度もアップし、91年の大阪証券取引所への上場にも大きく貢献しました。
さらにもう一つ。この成功体験が、私の大胆な決断を後押しします。それは、社員がアッと驚く経営の大転換でした。(聞き手・和気真也)