■総菜との出会いと挑戦
1965年に神戸・元町に開いた「レストランフック」から私は事業家として歩み始めました。
店には、港に停泊する欧米の客船や貨物船の船員たちが、神戸ビーフを目当てによく来てくれました。
ある時、デンマーク船の料理長に、「船ではどんなものを食べているのですか」とたずねたら、「一度見に来るか」と誘ってくれた。船の厨房(ちゅうぼう)に入り、ウナギのバター焼きやサンドイッチのおいしい作り方を興奮しながら学びました。航海に招待してくれる客船もありました。
そんな経験を重ねているうちに、一度、どうしても欧米を自分の目で見てみたいと思うようになりました。まだ海外旅行が一般的ではないころですが、1970年、外食産業の修業のためにと意を決して飛び出しました。
これが転機になります。
デンマークのコペンハーゲンに降りて、ドイツのハンブルクに入り、その後はミュンヘン、イタリアのミラノ、ローマ、フランスのパリ、そして米国へとつなぎます。行く先々で、レストランで食べて回り、頼み込んで厨房を見学させてもらいます。
しかし、それ以上に私の興味をひいたものがありました。デリカテッセンです。
街中やスーパーの一角に突然、スモークサーモンやハム、小エビのマリネ、豚肉のパテなど色鮮やかな料理がショーケース越しに並んで現れる。「え? これを家に持ち帰って食べるなんて発想があるのか」。これらの料理が市民の食卓を支えていると知り、驚きました。
試しにホテルへ持ち帰って食べましたが、なんとも言えずおいしい。
若い読者にはピンと来ないかもしれませんが、当時、日本では家庭の食卓に並ぶ総菜は、家庭内で作るのが当たり前。町の肉屋がコロッケをやっていたりはしましたが、商店街に総菜専門店なんて見かけないし、デパートでも並ぶのは佃煮(つくだに)やさつま揚げ、かまぼこという時代です。
ただ、「時代」は着実に欧米化していました。ホテルで1人、小エビのマリネをほおばりながら、私は「いずれ絶対に日本もこうなる」と思い、身震いしました。帰りの飛行機の中ではすでに、買って帰ったおいしい総菜を口にして、驚く日本人の顔を思い浮かべていました。
◆ロック・フィールド誕生
帰国後、さっそく自家製のスモークサーモンやパテづくりに挑戦。店に来る外国船の船長らに味見してもらいながら、商品開発に明け暮れました。
ここでレストランフックが運んでくれたもう一つの幸運がありました。近くにある神戸大丸の食品売り場の幹部が常連客でいたことです。胸中にある総菜事業への熱い思いを打ち明けると、百貨店の食品街に出ることを後押ししてくれました。
海外修業から2年後の1972年。神戸大丸に、デリカテッセンのレストランフックを開きます。この直前、わたしは今後の事業拡大を見越して、株式会社を立ち上げました。
名前は、名字の岩田を英語に変えて「ロック・フィールド」です。
神戸大丸では、「レストランの味をご家庭に」を合言葉にビーフシチューやスモークサーモン、グラタンなどを提供しました。そのうち、「おもしろいことをしている」というので、他の百貨店からも声がかかり、高島屋大阪店や阪急百貨店うめだ本店などへも次々に店舗を広げました。
と、ここまで話すと、華々しく総菜事業を拡大していったと映るでしょう。世の中そんなに甘くない。実際はちょっと違うんです。
神戸大丸に出したレストランフックは、当初は催事でヒットします。百貨店に来る、新しいものへの感度が高い買い物客の関心はひきました。ところが、先に述べたように、時代がはらむ「総菜は家でつくるものという価値観」が一気に変わるはずがない。常設店舗で始めたとたん、赤字です。まったく売れないわけではないが、そんなには売れない。高島屋や阪急の店も赤字です。
そのうち気の毒に思ったのでしょうね、百貨店も催事エリアに少し場所を貸してくれて、苦肉の策でホタテ貝の串焼きを売った。いま思えばテキヤみたいなものですが、若手に売るのが上手な社員がいて、これが大ヒット。総菜の売り上げが日に7〜8万円なのに、ホタテ貝だけで20万円稼いだ。レストランの収入もあるので、それらでなんとか赤字を補いながら、3〜4年続けました。
しんどかったですが、時代が必要としてくると信じて疑いませんでしたから、撤退は考えなかった。
5年たつと、客にも持ち帰り総菜の良さが浸透してきて、77年に満を持して「ガストロノミ」という総菜専門のブランドをレストランフックから独立させました。路面店を神戸・北野と御影に相次いで開き、欧州スタイルのデリカテッセンの良さを世間にアピールする拠点にしました。
◆恐るべき首都圏
近畿一円に総菜、後に「中食(なかしょく)」などと言われる価値観を広げつつあった私たちを見て、高島屋の経営幹部がそっとアドバイスをくれました。「大消費地の首都圏の時代だ。早く出なさい」
ただ、こちらは工場が兵庫にあります。毎日運ぶとなると、それだけで運賃は日に10万円かかる。神戸大丸の売り上げが日に20万円という時ですから二の足を踏みました。
でも、その人は熱心に誘ってくれました。アパレルの仕入れなどで眼力は確かな人でしたから、この人を信じようと決めました。
決めたからには、失敗できません。80年3月に高島屋横浜店に出店しました。優秀な社員を投入し、万全な体制で臨みました。
ふたを開けてみると、1日に100万円の売り上げがありました。2日分と思って用意した食材が初日の夕方前になくなってしまった。
あの店は駅直結で通勤客が多く訪れますが、これが首都圏の力かと正直、舌を巻きました。この成功が、総菜事業の屋台骨を太くしてくれます。
屋台骨が太くなったところで、私に次のひらめきが浮かぶのです。
(聞き手・デジタル編集部 和気真也)