■レストランフックの開業
透明なショーケースの奥に彩り豊かなサラダが並ぶ「RF1」。ロック・フィールドは、このブランドで総菜屋として有名になりました。でも、私の事業家人生は、1軒のレストランから始まりました。今日は少し、私のルーツを話しましょう。
神戸で生まれ育ちました。母は私が5歳の時に結核で亡くなりました。若いころは医者になりたいという、気丈な女性だったらしい。「百姓の娘が何を言ってるんだ」と笑われる時代でしたが、伯母は「お前の母は偉かった」と言ってくれます。父は財閥系の倉庫会社員。戦後は職を変え、あまり働き者とは言えませんでしたが、再婚もせずに私と兄姉を育ててくれたことに感謝しています。
小学4年生のとき、人生を左右する出会いがありました。近所に引っ越してきた日本料理屋のオヤジさん。私より2歳年下の男の子がいました。いじめられるんじゃないかと心配したオヤジさんは私をつかまえ、「うちの子の友達になってやってくれ」と。私は当時、近所で有名な悪ガキでしたから、頼もしく思われたんでしょう。
◆食の魅力、教えてくれたオヤジさん
それからオヤジさんの家にひんぱんに出入りするようになりました。なぜかって? 抜群に食事がおいしかったから。
夜8時半ぐらいになると店を閉め、従業員も交えて晩ご飯が始まる。何を食べてもうまかった。オヤジさんは東京で修業した後、満州でも働いていた。料理の腕も確かでしたが大変な読書家で、食事しながら歴史や文化の話もしてくれた。それがまたおもしろくて。
家は200メートルぐらいの距離でしたが、いつしか私はオヤジさんの家から学校へ通うぐらい、居着いていました。オヤジさんも私をかわいがってくれ、「弘三、ひつまぶし食べに行こうか」と言って名古屋まで連れて行ってくれたこともあった。食事のすばらしさ、料理が人に与える感動を教えてくれたのです。
高校へ進むと同時に、オヤジさんの所で修業を始めました。やがて、真剣に商売が学びたくなって高校の方は中退。明確に「食」の世界で生きていこうと決め、自分の店を持とうと思うようになりました。
2年ほどでオヤジさんの所は卒業し、貸本屋をやったり、お好み焼き屋をやったりして開業資金を集めました。
1965年、神戸の自宅1階に「レストランフック」を開きました。時代はみるみる欧米化が進んでいたから、欧風料理がやりたかった。一方で自分の料理センスはいま一つだと自覚していたので、大手ホテルのシェフを口説いて来ていただきました。看板メニューは神戸ビーフのステーキ。私は25歳でした。
◆メーンバンクの四国銀行
話は変わりますが、ロック・フィールドのメーンバンクは高知に本店がある四国銀行です。これもオヤジさんが勧めてくれた縁でした。
たまたま店の前に四国銀行の神戸支店が出来たんです。それを見たオヤジさんが私を呼び、「あそこは出来たばかりで顧客を探しているから、お前は一番で行って顧客になれ。きっと力になってくれる」とアドバイスをくれました。
実際に支店長はうちを大事にしてくれて、会社を設立した後、神戸工場の土地も紹介してくれました。とても手が出る土地じゃなかったんですが「ウチが出したるき」と。
事業が軌道にのると、支店長に「そろそろ大手都市銀行が営業にくるだろう。情報力では都銀にかなわない。でも、地銀には地銀の良さがあるから大事にしてくれ」と言われました。その言葉を守り、今もメーンは四国銀行。支店長は後に頭取になり、亡くなるまで交流がありました。絵を描くのが趣味で、私に描いてくれた海の絵は、今も社長室に飾っています。
色んな人の力に支えられながら、私は事業家として歩み出しました。レストランフックは、神戸港にやってくる国内外の貨物船、客船の船員や、旧居留地の商社、鉄鋼、造船、百貨店の社員に愛され、繁盛しました。
このお客さんたちが、私に次の扉を開くきっかけを与えてくれたのです。
(聞き手・デジタル編集部 和気真也)