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2012年6月22日10時56分

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〈仕事のビタミン〉飯島彰己・三井物産社長:1

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飯島彰己(いいじま・まさみ)1950年生まれ、神奈川県出身。横浜国大を卒業後、74年三井物産入社。金属・エネルギー総括部長、鉄鋼原料・非鉄金属本部長を経て、09年から社長。経営企画などの経験はなく、金属畑からトップに。竹谷俊之撮影

■湘南の自然児、一転、スパルタ学校へ

 三井物産は、1876年に旧三井物産が創設された時から海外との貿易を営み、世界各国で投資をして事業を展開していますが、私自身は、会社に入るまでは海外など行ったことがありませんでした。

 私の若かった時代は、それが普通でした。今でこそ、日本全国津々浦々を訪ね、海外のあちこちの国に行っていますが、実は、入社前までは静岡から西へ行ったことさえなかったのです。

 それなのに、どうして海外相手の商社の仕事についたのか……。第1回は、自己紹介を兼ねて、三井物産に入るまでの生い立ちに触れながら、三井物産が目指すビジネスの姿についてお話ししようと思います。

 小学校時代は神奈川県の逗子という街で育ちました。海や山で魚釣りや昆虫採集に興じたり、広場や公園で野球などのスポーツをしたり、と遊び回っていました。

 父親は休日にとにかく私をいろいろな所に連れて行きました。横浜の中華街や横浜港、鎌倉の鶴岡八幡宮や建長寺など、さまざまな所です。

 今振り返ると、連れ回したのは「いろいろなものを見て経験を積め」ということだったと思うのです。それは「好奇心」を持ってものを見るという、感性を育てることにもつながったと思います。

 仕事を始めてから、オフィスを出て、現場を見て、人に会うことで、さまざまなアイデアが浮かびました。父親といろいろな場所を訪ねた経験は、私にとって原体験になったのだと思います。

◆外国人教師、熱意と価値観

 小学校高学年になると、親から中学受験を勧められ、私立の栄光学園(神奈川県鎌倉市)を受験したところ、運良く合格しました。スパルタ教育の中高一貫校で、文武両道を追求する学校でした。

 カトリック系の学校なので、外国人の神父様、先生方が多かった。ドイツや米国、スペイン、アイルランドなど、いろいろな国籍の人がいました。

 外国人教師は勉強の教え方が違っていました。日本では、日本が世界地図のど真ん中にあるのに、アイルランド出身の先生は、まずアイルランドを中心に話をするのです。

 いろいろな国籍の先生がいて、おのおの地図の真ん中とする国が違うわけです。この価値観の違いはものすごく刺激的でした。そうした経験もあり、「外へ、海外に行ってみたいな」と漠然と思い始めました。

 外国人教師の方々は、それぞれの出身国に根差した多様な話をしてくれる一方で、母国の子弟でもない外国の少年たちに対し、懸命に愛情を持って教えてくれました。

 彼らは、自分の国に対する強い思いと同時に、派遣された先、つまり自分がいる日本に、教育を通して貢献する、そういう熱い思いがありました。

 私たちが海外で仕事をする場合、その国の発展に微力ながらも貢献したい、その国の人に喜ばれる仕事をしたいと思っています。

 グローバル化が加速するなかで、日本人、特に若い人たちには、自国への思いと相手国への敬意といった、そうした思いを強くもって欲しいと思います。

◆それは喜ばれている仕事なのか

 私自身も、常に日本のため、世界のため、という思いを自分の基軸にしています。私が携わった仕事は資源に関係するものが多かったので、日本の資源調達に役立ちたいと思うと同時に、資源ホスト国の経済発展に貢献しているのか、その国の人たちに「本当に喜ばれている仕事なのか」をよく考えています。言いかえれば、相手のニーズに応える仕事かということです。

 相手国に喜ばれているのかということはもちろん、広く世の中に喜ばれているかという視点で捉えるものだと思います。その仕事は社会に役立っているのか。取引先やパートナーの企業から評価されているのか。社員一人ひとりに考えながら仕事をしてもらいたいのです。

 今年の入社式では「好奇心」と二つの「そうぞう力」を研ぎ澄ませてほしいと伝えました。例えば、世の中やビジネス環境がどう変わっていくか、現場をみていろいろなことに気付く。そういう「好奇心」が大事で、そこから「想像力」をもってアイデアをめぐらせ、それを「創造力」で実現して欲しいという思いです。

 企業のビジネスモデルは陳腐化します。三井物産も移り変わるニーズに応じて業態を変化させ続けてきました。1876年に創業者、益田孝が創設した時代はコメ、石炭や綿花、機械の貿易を営み、戦後は軽工業から重工業への転換を図りました。高度成長期は、資源・エネルギー確保のため安定調達の役割を担いました。

 しかし、時代を超えて、変わらず、普遍なのは「それが世の中のニーズに応え、喜ばれる仕事かどうか」という点につきると思います。

 そういう仕事は、やりがいを持てるし、家族にも誇れます。私たちは、そういう「正々」とした仕事に「堂々」と取り組んでいきたいと考えています。

(聞き手・経済部 鳴澤大)

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