■お金にかえられないもの
あの「たい焼き」の味を今でも時々思い出す。
脇目も振らずに卓球に打ち込んでいた大学時代。冬の寒い日、すき間風も入ろうかというオンボロの体育館で練習をしていると、仕事を終えたOBの先輩がやってきた。午後8時を回ったような時刻だったと思うが、まだ数人が練習をしていた。
「ご苦労さん。これ食べろよ」。先輩は新聞紙に包まれたものを卓球台の上に置いた。開けると、ほかほかのたい焼きであった。
さっそく、その場にいた数人でほおばった。疲れた体に甘いたい焼きが元気を与えてくれ、生き返ったような気分になった。先輩の配慮がうれしかった。その場にいた全員が何ともいえない充実感を感じた。
長年にわたって金融ビジネスというものに携わっていると、知らず知らずのうちに「何かをお金に換算してその価値を考える」習慣が身につく。
「金融とは異時点間の購買力の交換である」と学問的には定義されるが、購買力の交換のためには、現在価値での比較を行う必要があり、金融とは様々なものを「お金」の現在価値に換算するところから始まる。
◆「人生はお金がすべてではない」
様々なものを「お金」の現在価値に換算する、それが金融業界で働く人たちの日常である。そのような日常を送っていると嫌でも気がつくことがある。
それは、当たり前のことだが、「すべてのものをお金の価値に換算することはできない」ということであり、「人生はお金がすべてではない」ということである。
「お金に換算された価値こそが全てである」として突き進んでいくと、大きな間違いが発生する。2007〜08年に世界を席巻した「金融危機」の背景には、そのような傲慢(ごうまん)さがあったと多くの識者は指摘する。
今、日本の企業社会では、「経済的報酬の差別化こそが人を動かす原理である」という言説がもてはやされることが多いと思う。人はお金によって動機づけされ動く。だから、基本的には大きな報酬の差を設けることによって人を動かす、という考え方である。
あまりにも狭量な考え方である。人は生きるために働いて収入を得る必要があるが、しかし、報酬を得ることだけを目的に働くわけではない。
「やりがい」や「生きがい」という言葉は昔からよく使われており、仕事に対しても使うが、「やりがい」や「生きがい」はお金だけと直結しているわけではない。
企業社会にどっぷり身を浸して生きていると、お金の価値に換算できないが大切なものの多くは、学生時代から目の前にあり、意識していたということをあらためて感じる。
◆たい焼き、につまっていたもの
冒頭のたい焼きの話にもどると、あの時の充実感はいったい何だったのか。愛、夢、希望、友情、絆。そういったものがあの空間に充満していたからではなかったのか。
私の場合、お金の価値に換算できない大切なものの多くは、キャンパスや体育館で意識し、触れていたのだろうと思う。
夏は暑く、冬は寒く、天井から雨漏りすることすらあった、今にも朽ち果てそうな体育館。更衣室もなく、女子部員は卓球台を収納している倉庫の中で着替えをしていた。
しかし、そんな体育館であっても我々は元気であった。
「卓球部を強くする」という情熱の下、多くの仲間が集い、明日を夢見て練習に励んでいた。大いに飲み、遊び、友情を育んだ。結婚に至ったカップルが3組も出た。仲が良かったのだ。
先日、大学内で開かれた卓球部のOB会に、久しぶりに顔を出した。キャンパスや体育館は驚くほどの変わりようであった。
私は「近代的陣容に変容を遂げたキャンパスや練習施設にあっても、皆さんにとっての卓球部が、いつまでもお金の価値に換算できない、大切なものを共有できる場であってほしい」と話した。
あいさつをしながら、生きていく上で多くの大切なことを学んだ若き日々を、懐かしさと自戒をこめて思い出した。
学ぶべきことは、知識の体系だけではない。現役の学生諸君は想像以上に多くのことを今、学んでいるのだ。
かけがえのない今を大切にしてほしいと思う。