〈仕事のビタミン〉桑原道夫・ダイエー社長:7

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社長室に飾ってあるはがき

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桑原道夫(くわはら・みちお)1948年生まれ、埼玉県出身。東京外語大を卒業後、72年丸紅入社。米州支配人、副社長を経て、2010年からダイエー社長。丸紅時代は自動車畑を歩き、米国など海外駐在も長い。かつて小売り日本一を誇ったダイエーの黒字復活に向け奮闘が続く。麻生健撮影

■ダイエーが震災で得た教訓

 東日本大震災発生から1年を迎えました。改めて被災された皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。

 私にとって、震災は、小売業が市民生活を守るライフラインを背負っているという重責を身をもって教えられるできごとでした。

 地震が発生した14時46分は東京・東陽町の本社で全国の営業部長が集まる会議に出ていました。

 揺れが来たのは、ちょうど私が質問していたときです。地下の会議室にいましたが、あまりの揺れの大きさに「これはすごいことになる」と思いました。そこで、会議は即座に中止して地上の駐車場に出ました。

 私としては、すぐに情報収集に取りかかりたかったので、駐車場にホワイトボードなどを運び出して、対策本部を発足させ、安否状況の確認を最優先に始めました。強い余震が断続的にありましたから、本社ビル内に戻ったのはしばらく後です。約40分後には、食堂に本部を移し、様々な対応策をその場で決めていく態勢をつくりました。

 対策本部では、継続して安否確認に努めました。これは社員だけでなく、お客様をきちんと誘導できたのかということも含めてです。「まずはお客様の安全」というのは阪神大震災を経験したダイエーの中に、脈々と息づいてきたDNAです。

 全国の営業部長が会議で本社に集まっていたのも都合がよく、すぐに各地と連絡を取り始めました。ところが関東から東の地域は、通常の電話も携帯電話もなかなか通じません。確認には相当苦労しましたが、お客様と従業員は全員無事で一安心しました。

◆一刻も早く開店したい!

 お客様も従業員も無事とわかれば、次の課題は店の営業状況です。11日は、グループ全体の約500店舗のうち52店舗が一時的に営業中止に追い込まれました。

 このうち仙台店が震源に一番近かったのですが、断続的な情報のやりとりの中で、建物は大丈夫だということが分かりました。地域の皆様もお困りだろうから、一刻も早く店を開けるしかない。ここでも阪神の経験が生きて、各部署がすぐに動きました。

 物資の手配はもちろんですが、高速道路を使うには緊急車両の許可がいるだろうとか、現地は人手不足になるだろうから社内の「応援組」が必要になるだろうといった手配を、早め早めに対応することができました。

 3月12日は、6店舗を除き、ほぼ全店で営業を再開しました。この日の夕方には仙台店への商品配送も始め、地震発生から43時間後の13日朝には仙台店も一部のフロアで食品を中心に営業を始めました。

 午前9時半の開店だったのですが、開店時には1千人以上のお客様にお並びいただきました。それからしばらくは、お客様の安全を勘案した上での営業なので、入場制限をする必要もあり、毎日長時間、お待たせすることになってしまいました。

 私も、すぐに仙台店に行きたかったのですが、当時は交通手段などが簡単に確保できないし、何といっても日々、対策本部へ様々な案件があがってくるので、なかなか本社を離れることができませんでした。

 その後、仙台店の再開を手伝った第2陣の「応援組」の交代にあわせて、17日に仙台店へ向かいました。第3陣の応援組とともに夕方に着いて、帰路に就く第2陣とともに夜中に出発する強行スケジュールです。

 余震も続いていましたから、対策本部長である社長の現地入りは慎重に考えるべきだという意見もあったのですが、どうしても直接、従業員のみなさんに会いたかった。がんばってくれて、ありがとうという思いを伝えたかったんです。

 着いたのは夕方で雪が降っていました。その中でお客様をお待たせしていたにもかかわらず、お客様から感謝のお言葉をいただきました。店内ではエスカレーターもエレベーターも動いていませんでしたから、従業員がバケツリレーで商品を運んでいました。年配の方もいましたが、みんな一生懸命です。

 私たちの会社のことですが、素直に「すばらしいな」と感動しました。私たちは市民のみなさんのライフラインを守ることが、社会から与えられた使命です。そのことを、私以上に従業員の方々が感じていました。

 それからも1週間ほど、対策本部には次から次へと課題があがってきました。商品の手配や配送をどうするかということもありますし、一時的にダウンしたシステムをどうするかといったこともあります。そこで考えていたのは「いかにして商品を、必要とされているお客様にお届けするのか」ということに尽きます。物資の手配も人の派遣も、全部経費増になります。もし数字による損得を考えていたら、たぶんできなかっただろうと思います。

◆東北弁のおはがき

 実は、大震災発生後の4月に入って、一枚のおはがきをいただきました。私の名前をご存じでなかったのでしょう、宛名は「社長様」です。差出人は「被災者一同」となっていて、東北弁でこう書かれています。

 「社長様! ありがど!!

仙台ダイエー、どごよりもあげて(開けて)ぐれて、うれすかった!!

『いらっしゃいませ!』の声聞いて 普通にもどれだよ!!

 ありがでー!! ありがでー!」

 私たちはお客様の生活の一部だということを、強く強く感じさせてくれたおはがきです。今も私の執務室に大切に置いています。

 もちろん、大震災を通じての反省もあります。社内には、阪神大震災の経験を生かした防災マニュアルがあったのですが、会社全体の事業を見通した事業継続計画(BCP)はありませんでした。それに防災マニュアルも、今回は直接の影響は受けませんでしたが、津波を想定していませんでした。通信手段についても準備が足りなかったと思います。対応しながら「ここが足りない」といったことはいくつもあって、それぞれすぐに見直すように指示しました。

 ひょっとすると、これは社会全体の問題かもしれません。1千年に一度と言われる今回の地震も、原発事故も、起きてから振り返ればそういうことが起こる可能性があるということが、分かっていた。

 ところが、備えは十分ではなかった。そのことを、どう考えるのか。それは、今回の震災で得た大きな教訓だと思います。

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