〈仕事のビタミン〉小池利和・ブラザー工業社長:4

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小池利和氏(こいけ・としかず)1955年生まれ。愛知県出身。1979年にブラザー工業に入社。82年ブラザーインターナショナルコーポレーション(U.S.A)に出向し、00年に同社社長。04年にブラザー工業取締役となり、07年から社長。米国滞在23年の国際派で、社内では「テリーさん」と呼ばれている。浅川周三撮影

■399ドルファクスの奇跡

 今回はブラザー工業が92年に発売した399ドルファクス「FAX−600」の開発エピソードをお話しします。

 創業103年のブラザー工業は、ミシンの修理・販売業の会社としてスタートしました。やがて、ミシンの製造をはじめ、時代とともに、タイプライター、工作機械、編み機、なども扱うようになり、今は情報通信機器が主力になりました。

 84年のロサンゼルス・オリンピックのオフィシャルサプライヤーとしてタイプライターを提供して、アメリカで知名度をあげましたが、85年のプラザ合意による急激な円高が直撃し、海外向けの事業の収益力は急速に悪化していました。

 当時としては大規模な投資をして投入したカラーコピー機も、商品企画が時期尚早、なおかつアナログのコピー機であったことも要因となって、あまり売れずに撤退しました。87年に販売を始めたファクスも、競合企業がひしめく競争が激しい世界で、後発のブラザーは、圧倒的に不利な立場にありました。

◆アピールポイントは何か

 「どうしたら、売れるようになるのか」。

 当時の技術開発陣は考えました。大量に販売できる可能性があるのは、タイプライターでの知名度が高く、販売チャネルもあるアメリカ。そして、当時のアメリカ市場は、799ドルのファクスの価格が主流でした。

 オフィス機器の販売店に入ると、10社ぐらいのメーカーで30モデル以上が並んでいるのがふつうでした。そこで目立つにはわかりやすいアピールポイントがなければならない。市場調査をしたり、販売店のバイヤーの方の話を聞いたりしていると、「ペーパーカッター付きで399ドルなら売れる」という結果が出ました。

 開発を担当したのは、現・ブラザー工業の専務執行役員で、当時は課長だった石川茂樹さんでした。石川さんは、撤退したカラーコピー機の開発のリーダーをしており、ファクスの成功に執念を燃やしていました。

 当時の役員会でも「ファクスはやめたほうがいいのではないか」という悲観論が出ていたと聞いています。しかし、当時社長だった安井義博現相談役は「これからは、将来性のある情報機器を軸にしていくべきだ」と考え、「あと1年やろう」と決断しました。

 ここからブラザーのものづくりの底力が発揮されます。

 開発期間は従来の半分の1年間。399ドルを実現させるために、原価を4割減らさねばなりません。開発陣は何度も合宿を行い、期間短縮とコストダウンのために、開発、購買、製造を同時並行で行いました。

 1円でも原価を下げるために、感熱紙を切るカッターを高い外注品から内製品に切り替えたり、スイッチの仕組みを簡素化したりしました。読み取りレンズの担当者は新しい取引先を探すために、会社を飛び出して1週間帰ってこなかったそうです。その結果、レンズの原価を7割以上削減することに成功しました。

◆ねばり強く、あきらめない人たち

 こうした総力を挙げての努力や、マーケティング部隊の創意・工夫によってアメリカ市場に投入したファクスは大ヒットしました。アメリカ人はブランド名に流されることなく、品質や性能、価格などの価値で商品を選ぶ傾向が強いことも後押ししました。当時は国内の訪問販売ビジネスがさらに難しくなってきていましたから、ファクスの成功は、ブラザーの現在の姿である情報通信機器を中心とした事業にまい進するための、大きな突破口と自信になったのです。

 399ドルファクスは、ブラザーのものづくりの真価が発揮されたケースだと思います。私はブラザーが100年以上にわたって成長を続けてこられたのは、石川さんのように厳しい局面であっても、ねばり強く、あきらめなかった人たちが多かった、ということにつきると思います。

 上司から「それはちょっとやめておきなさい」といわれて、「はい、そうですか」と引き下がる人ばかりでは会社はつぶれてしまう。逆風が吹こうが、実直にプロジェクトを続けていく人、反対意見を言い続けて曲げない人。そういった異なった感覚や価値観を持つ骨太の社員がたくさんいたことが、ブラザー工業の持続性を生んでいると思います。

 要は、安定を望むおとなしい優等生よりも、多少、周囲に誤解されるような言動があるかもしれないが、失敗を恐れずにリスクに果敢に挑んでいく人材を、ひとりでも多く育てることなんです。

 私もそんな社員の1人だったと思います。

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