〈仕事のビタミン〉小林喜光・三菱ケミカルHD社長:4

写真・図版

小林喜光(こばやし・よしみつ)理学博士。1946年生まれ。71年東大理学系大学院修士課程修了後、イスラエル・ヘブライ大、イタリア・ピサ大に留学。74年に三菱化成工業(現・三菱化学)入社。三菱化学メディア社長などをへて、07年から三菱ケミカルホールディングス社長。細川卓撮影

■存在の軽さに悩んだ青春時代

 前回のテーマは現代を生きる若者へのメッセージでした。今回は私が若者だったときに、人生を変える「啓示」を受けたイスラエルでの「ある体験」についてお話しします。

 私の青春時代を振り返ると、15歳のときから私は「自分とは何か」「人は何のために生きるのか」という哲学的な課題にとりつかれ、悩みました。

 答えを探すために、本を読みました。太宰治、坂口安吾、ランボー、ニーチェ、サルトル、カミュ。コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を読んで、「人はなぜ生きるのか」という課題に正面から向き合っている英国の作家に大いに共感しました。しかし、本を読みあさっても答えは見つかりませんでした。私は生きることにおいて、インサイダーたりえない、ニヒリストでした。

◆学生時代はアウトサイダー

 大学への進学を選択する際には文学や哲学を専攻することも考えました。しかし、DNAの二重らせん構造を証明したワトソンとクリックの研究を知って、「科学の世界からも『自分とは何か』『人間とは何か』という課題を解析できるのではないか」と考え、理科系を選びました。文学や哲学では出口が見つからない気がしました。また、ロジカルに結論を導き出せる科学の方が、精神的にも安定するだろうと思ったのです。研究者を目指すことにしました。

 大学では専門課程で基礎科学を、大学院に進んでからは放射線化学を専攻しました。大学に入学してからも自分という存在の耐えられない軽さに悩んでいました。満員電車に揺られながら「この電車の中にある200、300の心臓のなかで、自分の心臓にはどんな価値があるだろうか」と考えました。

 私は全共闘世代です。周りの学生たちは天下国家を声高に論じていましたが、同級生の輪に加わろうとは思いませんでした。私は「アウトサイダー」でした。渋谷で気の合った友人たちと酒を飲みながら、生きることの意味を考えていました。

 博士課程1年のときに転機が訪れました。大学の掲示板にイスラエルのヘブライ大学への国費留学の案内が貼られていたのです。テルアビブ空港での銃乱射事件が起きた直後だったため、周囲は猛反対しましたが、試験を受けたら合格しました。

 なぜ、イスラエルにひかれたのでしょうか。

 理由は二つあります。一つは、私はもともとイスラエルやユダヤ人に強い関心を持っていました。ユダヤ人は2000年以上前に「亡国の民」となり、世界各地に散らばっても、強い民族意識を維持し、アインシュタインのようなノーベル賞学者や、マーラーといった偉大な芸術家も数多く輩出しています。ビジネスの世界でも成功者が多い。なぜ、こうした天才たちが続々と登場するのか、その背景を知りたかったのです。もう一つの理由は、ヘブライ大学は放射線化学で最先端の研究をしていたことにありました。

 留学して、イスラエルの研究者たちの仕事ぶりに目を見はりました。日本の大学院では1年に1本程度の論文でも問題ありませんでしたが、イスラエルでは5本、6本が当たり前でした。しかも質が高いので一流のジャーナルに掲載されます。研究者たちの自己規律の高さに強い影響を受けました。

◆砂漠の光景から啓示

 さて、イスラエルの留学中に、冒頭でお話しした生き方が一変する体験をしました。

 今はエジプト領のシナイ砂漠へのツアーに出かけました。私は25歳でした。オアシスの小高い丘から眺めると、目に入ってくるのは砂ばかり。生き物のいない荒涼とした景色でした。「本当に何もない、ということがこの世にはあるのだな」と思っていると、はるかに遠くから、黒いショールをまとったアラブの女性が、黒いヤギの群れを連れて歩いてくる姿が見えたのです。

 何もない砂漠に1点、生きて動いているものがある。灼熱(しゃくねつ)の世界に揺らめく黒。自分の心臓の鼓動をはっきりと感じていました。全身に衝撃が走りました。私は「生きるということは、ただそれだけで素晴らしいのだ」という啓示を得たのです。

 15歳のときから、自分という存在の軽さに悩んでいましたが、吹っ切れました。そして、「徹底的に燃焼して生きて、自分でしかできないことをやろう」という使命感を抱くようになりました。

 実は私は学生結婚をしていて、妻もイスラエルに一緒に来ていました。この砂漠ツアーにも同行しており、私の興奮を横目に見ていたようです。

 砂漠の光景は一枚の絵として私の脳裏に焼き付いています。今でもつらいことはたくさんありますが、そんなときは私にとって絶対的な価値である、この光景を思い出します。すると、「つらいけれども、自分はまだやれる」と原点に立ち返れるのです。

 イスラエルの留学は1年で終え、その後、イタリアのピサ大学に移り、1年間化学を専攻し、1974年に帰国しました。研究者として生きるために、大学に残ろうかとも思いましたが、助手の空きがありませんでした。子どもが生まれていたために、収入を得る必要がありました。就職を決意しました。

 学生時代の友人である知り合いを通じて、三菱化成工業(当時)の人事担当者を訪ねました。留学中にずっとのばしていたヒゲについては「そったほうがいいな」と判断しましたが、半袖シャツに赤いズボン姿という普段着で、東京・丸の内の本社を訪ねました。担当者からは「非常識だ」とあきれられました。しかし、持参した論文を「面白い」と言ってくれた幹部の人がいて、研究職での入社が決まりました。

 74年12月2日付。28歳の新入社員でした。

更新情報