〈仕事のビタミン〉小池利和・ブラザー工業社長:3

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小池利和氏(こいけ・としかず)1955年生まれ。愛知県出身。1979年にブラザー工業に入社。82年ブラザーインターナショナルコーポレーション(U.S.A)に出向し、00年に同社社長。04年にブラザー工業取締役となり、07年から社長。米国滞在23年の国際派で、社内では「テリーさん」と呼ばれている。浅川周三撮影

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20代のころの小池社長

■商品企画担当に、打率は2割5分

 1981年に日本から持ち込んだプリンターがアメリカで大ヒットし、「営業はもういいだろう」ということで、アメリカ現地法人の商品企画を担当することになりました。1985年、29歳のことです。

 本社で開発、設計をしている技術陣の間では「小池のいうことを聞いていると売れるぞ」「小池の意見はいい刺激になるものが多い」という機運が生まれていました。技術陣もまた、海外で新事業を成功させたかったのでしょう。

 私は「運が良かっただけなのになあ」と謙虚に思う半面、期待されていると考えると、やる気が体中にみなぎりました。「おれがやらずにだれがやる」という心境でした。

◆「シンバルをたたく猿」

 私はおもちゃの「シンバルをたたく猿」のようなところがあって、期待されていると思い込んでいると、一生懸命、バンバンバンバンと、シンバルをたたき続ける単純な性格の人間なんです。

 結論から言うと、商品企画の成功率は2割5分ぐらい。成功もありましたが、失敗のほうがはるかに多かったと思います。

 まず力を入れたのが、プリンターの技術革新に追いつくことでした。

 1980年代半ばにかけて、アメリカのコンピューター大手であるヒューレット・パッカード(HP)をはじめとする各社がインクの液を紙に噴射する「インクジェット方式」や、レーザー光を利用して感光ドラム上にトナーで文字などのイメージを作り、紙に転写して印刷をする「レーザー方式」のプリンターを開発し、市場に投入してきました。

 ブラザーが販売していた、印字装置と紙の間にインクリボンをはさみ、圧力をかけて印字するタイプのプリンターとは、格段に性能が違いました。印字スピードが圧倒的に早かったし、音も静かでした。モノクロからカラーへ進化する道筋は当時、誰の目にも明らかでした。

 「インクジェットやレーザーの技術やカラー化の流れに遅れてはいけない。さもないと、プリンター業界から駆逐されてしまう」。私は、本社のトップを含めた技術開発陣にねばり強く提案しました。ブラザーではカバーしきれない技術については、他メーカーと提携した形での開発も視野に入れて、いろいろな会社を訪れ、多くの方々のお話を聞いて、情報収集に力を注ぎました。

 87年にレーザープリンター「HL−8」が完成し、販売を始めました。しかし、ソフトウエアによって付加価値が生まれていた間はよかったのですが、次第に競争が激化、保有していた技術の付加価値が下がり、外部から採用していたエンジンとの組み合わせでは採算が合わず商品の競争力は徐々に失われていきました。

 私は「変化に柔軟に対応するためには、自社開発が必要だ」と考えていましたし、本社の技術開発や製造に携わる人たちの思いは、より強かったのだと思います。その後、自社エンジンの開発に着手、94年にはブラザーの独自技術が詰まったレーザープリンター「HL−630」を販売しました。

 「HL−630」は、ブラザーが独力で世に送り出した最初のレーザープリンターですが、性能や品質がまだまだ完璧ではなく、お客様からお叱りを受けることも多々ありました。ですが、開発のために培われた技術は、現在に継承されています。そのような意味で、このブラザー初のレーザープリンターに対する開発者や製造の方たちのチャレンジは、情報通信機器の基盤づくりに大いに貢献したと思っています。

 成功したことも少しご紹介します。たとえば、アメリカのSOHO(スモールオフィス・ホームオフィス)向けの「The missing link(ミッシングリンク)」というオプションキット。これは、ファクスをプリンターやスキャナーとして使えるようにするものでした。その後出てくるような、プリンターやファクスなどをひとつにした複合機が普及する前の90年代前半、「ファクスだけでなくて、プリンターなどとしても使える、複合機能を持つ商品をつくったらどうか」と私を含めたアメリカの商品企画やマーケティング部隊から強く提案して、さらにはアメリカのパートナーまで探してきて、商品化にこぎつけたのでした。

◆何でも自分でやる

 ただ、冒頭に「打率2割5分」と申し上げた通り、空振りもありました。

 失敗例の一つが、アイロニングプレスという大型のアイロンです。ライバルのミシンメーカーが販売していたので、「うちでも家庭向けにつくったらどうですか」と提案しました。本社は「他社が先行してシェアをとっているのに、今さらつくれない」という返事。しかし、多少のことではへこまない私は、「よし、それなら韓国の知り合いのメーカーに作ってもらおう」と、1万台を発注しました。全く売れませんでした。

 当時の私は、心の中ではいつも「ブラザーの将来はおれがしょってたつ。未来を支える新商品はおれが企画するんだ」というハングリー精神と、「人に頼らず、何でも自分でやる」ことをモットーにしていました。失敗と成功を繰り返した日々が、私のビジネスマンとしての基礎体力をつくったんです。

 次回はブラザーのものづくりの底力を示す「399ドルファクス」の逸話をお話しします。

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