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2012年1月10日10時09分

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仕事のビタミン 稲野和利・野村アセット取締役会議長3

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稲野和利(いなの・かずとし)1953年生まれ。東大法学部卒業後、76年野村証券入社、00年専務、03年野村ホールディングス副社長。09年野村アセットマネジメント会長を経て、11年4月から取締役会議長。経済同友会副代表幹事、投資信託協会会長、日本証券アナリスト協会会長。細川卓撮影

■正しい意思決定

 無謬(むびゅう)な人間はいない。そして経営者も無謬ではない。無謬でない以上はそれを自覚した上で、いかに意思決定の精度を上げていくかということが経営者にとって重要になる。今日的には、経営者が意思決定を行うための補助装置はどこの会社においても充実している。優秀なスタッフであり、そして計算である。

 しかし、一方で、「合理的意思決定の限界」というものが明らかに存在している。自社として新しいプロジェクトに挑戦することになったとしよう。いくらプロジェクションを精密に立てても、いくらNPV(ネット・プレゼント・バリュー=将来キャッシュフローの現在価値)を比較しても、いくらIRR(内部収益率)を計算しても、それだけを基に意思決定・実行しようとしても、そこには一種の限界がある。

◆新しい動きを阻害する逆説

 計算の前提となる「精度の高いデータ」がもたらされるということは、「すでにしてだれかがそのようなことを行っている」ことを意味するからであり、それは一種の「後追い」になる。「後追い」をいたずらに否定すべきではないが、当然、そこには限界がある。

 一方で、「精度の高いデータ」が存在しない場合は、「挑戦」ということになり、そこでは「数字」「計算」以外の要素が最終的に重要になる。

 「仮定の数字だけに頼ることなく、十分な時間を使って自分の頭で考え、勇気をもって決定する。決定した以上は断固として実行する」。経営者個人のみならず組織としてそのようなことが求められるということである。

 ところが、大企業に埋め込まれた装置は、前例のない新しい動きを阻害し、エネルギーを減殺する方向に働くものである。賢い人がそろえばそろうほどそうなってしまう、抑制的になってしまう、という逆説もあるだろう。

 15年ほど前。当時、筆者は野村証券において「優秀なスタッフ」の集団の長として、国内営業部門の企画に携わっていた。営業戦略や店舗戦略の立案・実行が主な仕事である。

◆挑戦とはどういうことか

 ある時、首都圏近郊の中堅F支店の支店長が店舗移転を申請してきた。店の老朽化及び収容能力の限界を訴え、駅前再開発を契機に好立地の場所に移転し業容を拡大するというプランである。

 問題は費用であった。数億円の一時費用と年間何千万円かの賃借料などランニングコストが増大する。前例のない話だ。直ちに却下した。費用対効果という観点からとても間尺にあわないと思われたし、それだけの金額を投下するのであれば他に優先すべき案件があるはずである。

 2度、3度、支店長は来た。粘り腰である。熱意はある。しかし、プロジェクションはどう見ても甘い。却下である。

 そうこうしているうちに、支店長は営業管掌役員に直訴に及んだ。「誰に何を言おうと駄目なものは駄目だし、絶対にこの案件は認めないぞ」と牽制(けんせい)しても、支店長はめげる様子がない。

 営業管掌役員から照会があった。「例の移転案件はどうなっているのか」。私が「絶対に認めることはできません」と数字の説明をすると、役員は興味なさそうに聞いている。結局、その日その役員は「そうはいっても様々な前提を置いて多方面から検討するように」と指示してきた。

 指示を受けての役員を面前とした2回目の会議。結論は出ない。その間も支店長は動きをとめない。いやみの一つ、二つ言っても動じる様子がない。こちらにも意地がある。「この案件を認めたら世の中の秩序が壊れる」。そんな気持ちだった。

 3回目の会議。役員は問う。「諸君の結論はいかに」。「優秀なスタッフ」の目が私に集まる。私は断定した。「絶対に、絶対に、絶対に、絶対の3乗で本案件は不可です」

 役員は答えた。「よく分かった。諸君がそこまで言うならば、逆にこの案件は実行する。そういう意思決定があってもいいだろう。最終意思決定者は私だ。私の責任において決定する。計算だけでは答えの出ない問題もある。やってみなければ分からないこともある。挑戦とはそういうものだ」

 一同、一言もない。思いもかけない形での決着であった。

 その後、移転したF支店の業績は今日に至るまで、好調だ。そして、私が懸念した社内の秩序が壊れることもなかった。

 意思決定は難しい。事実やデータを軽視するのは論外だが、逆に頼りすぎは可能性の芽を摘み取る。

 「挑戦」という言葉が今でも頭の中に響く。

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