〈仕事のビタミン〉桑原道夫・ダイエー社長:1

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桑原道夫(くわはら・みちお)1948年生まれ、埼玉県出身。東京外語大を卒業後、72年丸紅入社。米州支配人、副社長を経て、2010年からダイエー社長。丸紅時代は自動車畑を歩き、米国など海外駐在も長い。かつて小売り日本一を誇ったダイエーの黒字復活に向け奮闘が続く。麻生健撮影

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米国駐在時代の部下たちの協力で完成した、25セント記念コインのコレクション

■「敬人通意」

 皆さん初めまして、ダイエー社長の桑原と言います。これから半年間、おつきあいのほどよろしくお願いします。

 初回は、自己紹介も兼ねて、仕事をしていく上で、私自身がとても大切にしていることについてお話ししたいと思います。それは、タイトルにある「敬人通意」です。人を人として敬い、徹底的なコミュニケーションで意を通じ合う、かつ、意を通す、といった意味です。耳慣れない言葉かも知れませんね。実はこれ、私の造語なんです。

 私は昨年(2010年)5月にダイエー社長に就任しましたが、それまでの38年間は総合商社の丸紅にいました。主に、海外への自動車の卸や小売り販売を手がける自動車部、というところを歩んできました。

 この自動車部や他の機械を取り扱う部も含めて、輸送機・産業システム部門という組織ができまして、02年に私がこの部門長になりました。わずか3年前までは部長だったのですが、会社の方針もあって、一気に300人を超える部門を統括する立場になりました。

◆「敬人通意」を使い始めた訳は

 「敬人通意」というのはその頃、使い始めた言葉です。人との会話は必ず1対1で、肩書の関係ない話し合いなんですよ、ということを伝えたかったんです。部門長であろうが課長であろうが課員であろうが、肩書ぬきにお互いを尊重して思いを語り合うべきだ、と。直属の部下にあたる部長たちにはこの言葉の意味を解説しつつ、上司、つまり私に対して意見を通すという意味もあるんだぞ、ということも伝えました。

 当時、四字熟語がはやっていました。でも、そういう名言集から「この言葉いいな」と思って拾っても、ぱっと言えないとかっこ悪いでしょ。その点、自分で作った言葉なら忘れない利点があるんです。

 私自身はかなりしゃべる性格です。そこは人それぞれですが、しゃべらない人って何を考えているのか分からないですよね。その時点で米国とベルギーへ2度の海外駐在を経験していたのですが、国が違えば日本人以上にコミュニケーションを取らないと、ますます分からないという実感もありました。肩書がすごい人だとしゃべりたくないってありますよね。私自身もそうでした。でも、しゃべっちゃうとどうってことはないんですよ。しゃべり合う、語り合う、その積み重ねで度胸もつき、物怖(ものお)じもしなくなります。

◆三百数十人、名前を覚える

 自分で努力したのは当時、できるだけ部門の人みんなの名前を覚えることでした。私がまだ担当者の時、上の人が名字を覚えてくれているかいないかでずいぶん違う印象を持っていました。だから、自分は偉くなるかどうかは分からないけれど、できるだけ努力しようと思っていたんです。三百数十人、当時は顔を見れば名字は分かりました。といって、覚えるために特別な勉強をしたわけではありません。個室のドアを開け放って、自分もすぐ出かけるようにして、とにかくみんなとよくしゃべっていました。

 部門長をやった後、06年に米州支配人という米国のトップの立場でニューヨークに赴任しました。この米国法人が当時、社員から人事に関する訴訟を起こされていたんです。「日本人が優遇されてアメリカ人が差別されている」といった内容でした。これはコミュニケーションをよくしないといけない、と一層、思いを強くしました。

 着任翌日から「CEOコミュニケーション」と題して、社員と対話を持つ場を3カ月に1回、もうけるようにしました。敬人通意も、英語だとワンフレーズで言いにくいのですが説明してね。平等だから肩書、国籍は関係ないんだよ、ということを伝えました。

 どこまで受け入れてくれたかは分かりません。印象的だったエピソードをご紹介すると、当時米国で、25セントコインを州ごとに違うデザインで記念発行していました。これを集めていたのですが、2年後に日本へ帰る時にまだ全部発行が終わってなくて、50州のうち42、43州分だったんです。そうすると、集めていたことを知っていたアメリカ人のスタッフたちが、日本へ出張する機会に3回ほどにわけて、持ってきてくれたのです。これまで通してきた、みんなで話し合い、お互いに信頼関係を築いていたことが結果として、絆として、つながったのかなと思います。

 人種や国籍とかは関係なく、やはり人と人というものは、コミュニケーションでお互いにわかり合えるのだということを、米国でも経験しました。長年勤めた丸紅を離れてダイエーに来た今でも、この信念は変わりません。

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