〈仕事のビタミン〉小池利和・ブラザー工業社長:1

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小池利和氏(こいけ・としかず)1955年生まれ。愛知県出身。79年にブラザー工業に入社。82年ブラザーインターナショナルコーポレーション(U.S.A)に出向し、00年に同社社長。04年にブラザー工業取締役となり、07年から社長。米国滞在23年の国際派で、社内では「テリーさん」と呼ばれている。浅川周三撮影

■テリーのアメリカ武者修行

 みなさん、こんにちは。ブラザー工業社長の小池利和です。ブラザーは創業103年の名古屋にある企業です。「マイミーオ」の名前で知られる、薄型インクジェットプリンターなどの情報通信機器やミシン、携帯電話や自動車の部品をつくるための工作機械、「JOYSOUND×UGA」のブランドで通信カラオケ事業も展開しています。欧米を中心に、売り上げの約8割が海外で占めているグローバル企業です。

 私は入社3年目でアメリカに赴任。それから23年間、アメリカで働きました。アメリカ人は「利和」という私の名前が発音しにくいので、頭文字は「T」ではじまるニックネームをつける必要がありました。子どものころからプロレス大好き人間の私は当時、偉大なプロレスラー、テリー・ファンクを敬愛しており、アメリカでの愛称は「テリー」にしました。日本に戻ってきて、社長になってからも、社員からは「テリーさん」という愛称で呼ばれています。

 1回目は、私がアメリカ武者修行に旅立つことになった経緯からお話しします。

●26歳でアメリカ赴任を志願

 1981年10月31日。26歳になりたての若造だった私はアメリカ・ロサンゼルスの空港に降り立ちました。使命は、日本で開発したばかりのプリンターを、アメリカで売ること。ただし、アメリカ現地法人の助けを借りずにやってみろ、というミッションでした。

 現在は情報通信機器が主力のブラザー工業ですが、当時はミシンの訪問販売が多く、売り上げの半分近くは、まだ日本国内でした。日本では、ダイエーのような量販店の進出で、訪問販売という手法にかげりが見え始めており、このまま何もしなければ「会社の売り上げは縮小に向かっていくのではないか」と、入社したての私ですら危機感を持っていました。

 そんな時に、英文用のデイジーホイールプリンターが開発されました。「HR−1」といいます。これは、タイプライターをベースとして開発されたもので、これをコンピューターにつなげば、プリンターとして使えます。印字スピードは遅いのですが、価格は当時流通していた従来製品の半分程度でした。ただ、英文用ですから、海外でないと売れません。

 しかし、アメリカ現地法人はミシンやタイプライターを主力としていて、海のものとも山のものともわからない、プリンターを売ってくれません。本社から人を派遣して、独自にプリンターの販路開拓を目指すことになりました。

 しかし、ハードルが高いミッションのためか、だれもアメリカ赴任に手をあげる人はいません。「誰か適当な人間はいないか」。社内で候補者を募っているという話を耳にしました。

 入社してわかったのですが、ブラザーは家族的な居心地のいい会社でした。飲み会にいけば先輩たちがおごってくれるし、マージャンで夜遅くなれば、家にとめてくれる。先輩たちとのゴルフも楽しかった。仕事のやり方も親切に教えてくれました。

 アメリカ赴任の直前は、ブラザーが輸出をしていたタイプライターがダンピング(不当廉売)で訴えられたことを受けて発足した、対応チームにいました。毎日の仕事は学ぶことが多く、充実していました。

 しかし、私は大学サークルでもリーダーをつとめた生まれついての仕切り屋です。「人と違うことをやりたい。でっかいことを成し遂げたい」というハングリー精神が旺盛でした(56歳のいまでも旺盛です)。

 もう1人の私がささきやきました。「このまま、ほんわか毎日を過ごして、結婚をして、年功序列の階段をのぼって、部長ぐらいで終わる人生でいいのかね」

 だめだ、だめだ、そんな人生は。よし、だれもやりそうもないし、おれがやってやろう。若いんだから、失敗してもいいじゃないか。若いうちの失敗は貴重な経験になる。

 「ぜひ、私にやらせてください」と志願しました。

●泥縄式で英語を勉強

 大学時代にカリフォルニア・サクラメントにホームステイをした経験はありましたが、英語は苦手でした。「語学研修をじっくりとやってからだな」などと勝手に考えていると、上司からは「研修やってもどうせさぼっちゃうから、時間の無駄。アメリカなのだから、必要なものは何でも売っている。パンツ3枚持って今すぐアメリカに行け」と一喝されました。

 甘い考えも吹き飛び、仕方がないので、NHKの英会話教室のカセットテープをまとめ買いしたり、アメリカのテレビ番組などを見たりして、泥縄式に勉強をしました。

 そして、81年10月31日。私は、当面の生活に困らない程度の衣類が入ったスーツケースと、販売するプリンターを抱えて、アメリカに赴任しました。

 「ひょっとしたら、若いうちから、でっかいビジネスチャンスに恵まれるかもしれない」という期待感と、「英語もろくにわからんし、プリンターをたくさん売ってくると大見えを切ったものの、もしもまったく売れなかったら、自分の人生はどうなってしまうのだろう」という不安感が、交錯していました。

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