〈高津臣吾〉野球を愛し、去った男。僕は投げ続ける

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BCリーグの開幕戦で力投する高津投手=4月16日、新潟県長岡市の長岡市悠久山球場

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試合後、ファンにサインをする高津投手=新潟市中央区

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新潟アルビレックスBCの高津臣吾投手

■サイドストーリー

 お盆が過ぎました。亡くなった方に思いをはせた人も多いのではないでしょうか。ロッテや阪神、大リーグのヤンキースで活躍した伊良部秀輝投手がこの夏、亡くなりました。彼の話をさせて下さい。

 僕より1学年下。不思議と、日本では直接の面識はありませんでした。初めて会ったのは2008年4月。場所は、米ロサンゼルスのスーパーでした。

 当時の僕は、大リーグ・カブスとマイナー契約をしてキャンプに参加した後、オープン戦の途中で解雇されたばかりで、ロスで練習場を借りて球団を探しているところでした。通訳と一緒に近くのスーパーに入ったら、彼がいたんです。あの大柄な体で、サクランボを選んでいたのを覚えています。

 向こうも気付いた。「高津さんですよね」。あいさつの後、その場で30分以上、野球談議になりました。理想の投球フォーム、足を踏み出す位置とか、細かいこと。意外によくしゃべるんです。

 阪神から戦力外通告を受けた後、引退し、米国でうどん屋を経営したけれど畳んだ、と言っていました。僕の事情を説明すると、「一緒に練習させてもらえませんか」。彼も、野球に飢えていた。

 それから1カ月間、ともに汗を流しました。ピッチングについて研究しつくし、初めて耳にする理論に驚かされた。「投手の手から球が離れて捕手に届くまでの最初の3分の1の間、球が打者に見えない投球を目指してたんです」。打者に球の出どころが見えにくいフォームに、こだわりを持っていました。

 そして、「見えるか見えないか、僕の投げる球を受けて下さい」。僕はキャッチャーとして彼の球を受けました。手加減してくれましたが、そりゃ、すごい球でした。彼の言うことが、何となく分かりました。

 その後、僕は米国を離れ、韓国の球団に入ります。人づてに、彼はしばらくそこで練習をしていた、と聞きました。そして、1年後に米国の独立リーグに復帰。四国の独立リーグでもプレーした後、けがをして2度目の引退をしました。

 選手にとって、野球ができないことほどつらいことはない。彼は後悔しないために、もう一度努力した。彼と知り合った当時の僕もそうだったから、気持ちがよくわかる。一緒に練習していたとき「もう一回投げたいんです」と言った彼の言葉が忘れられません。

 とにかく一途に野球を愛した男でした。ご冥福をお祈りします。そして、今も野球をできる幸せをかみしめながら、僕は投げ続けます。

     ◇

 たかつ・しんご 1968年11月、広島市出身。広島工高から亜細亜大を経て91年にドラフト3位でヤクルトに入団。サイドスローからの鋭いシンカーを武器に、抑え投手として4度の日本一に貢献した。最優秀救援投手にも4度輝き、通算286セーブは6月16日に岩瀬仁紀(中日)に更新されるまで日本プロ野球記録だった。大リーグのホワイトソックスなどでも活躍し、昨季は台湾でプレーした。今季から、上信越と北陸で活動する独立リーグ・BCリーグの新潟アルビレックスBCに移り、活躍を続けている。

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