宮沢喜一元首相は冷戦後の混沌(こんとん)とした世界に対処すべく、憲法を重んじつつ自衛隊の活動の限界を探った。宮沢が残した政治行動記録(日録)を手がかりに今の課題とのつながりを掘り下げる。(敬称略)(編集委員・藤田直央

 冷戦終結後、72歳で首相となった宮沢が国際秩序構築への貢献として打ち出したのは、国連平和維持活動(PKO)への初の自衛隊派遣だった。

 その方針を揺るがした大事件に関する記述が、1993年5月4日の日録にある。「22:02 ホテル発」。「Cambodiaで文民警察官死亡により」と走り書きが添えられていた。

 当時カンボジアは内戦を乗り越えて国づくりをしようとしており、その選挙を支えようと国連の暫定統治機構(UNTAC)がPKOを展開。日本が和平交渉に関わってきたこの国に宮沢内閣は自衛隊や警察官を送っていた。

 その警察官らが武装集団に襲われ死者が出た。連休を長野・軽井沢で過ごす宮沢に連絡が入る。車で「22:02 ホテル発」、翌日「00:18 官邸入り」、「00:21~01:25」に官房長官の河野洋平や外務事務次官の小和田恒(おわだひさし)らと協議、とある。

 焦点は、憲法との関係で海外での武力紛争に巻き込まれないようにという条件で派遣した自衛隊を撤収させるかどうかだった。

拡大する写真・図版1993年5月7日の閣議前、カンボジアPKOで殉職した文民警察官の高田晴行警部補に対し、黙とうする宮沢首相(左)と河野官房長官=国会内

 今年2月、河野に当時のことを…

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