1984年に起きたグリコ・森永事件の発生時、大阪府警本部長として指揮を執った四方修さんの葬儀が5日、大阪市北区で営まれた。事件では犯人側から名指しで挑発された四方さん。未解決で終わったが、事件から得た教訓を語っていた。

 5日午前、葬儀会場の浄信寺には警察庁や府警、政財界からの供花や弔電が多く寄せられ、「親分」として慕ったOBらも最後の別れを告げた。

 四方さんは30年、京都府亀岡市生まれ。55年に京大法学部を卒業後、警察庁に入った。警視庁交通部長や、茨城、愛知、大阪の府県警本部長などを歴任した。

 四方さんの自伝「双頭の頂」によると、国民学校5年の時に真珠湾攻撃があり、旧制中学2年の時には予科練に1カ月間、経験入隊した。この頃、喫煙を試す「ヤンチャ盛り」の一面もあった。

 45年8月に敗戦を迎えた。「国のために死のう」と思っていたのに、その国がなくなっていく。そんな感覚になり、「不安だった」とつづる。

 京大時代にはマージャンやパチンコに親しみ、地元の青年団長として祭りや演芸大会といった催しを運営した。

 警察庁に入った半年後の55年10月、初めての地方赴任が大阪府警だった。

 生野署に配属された。四方さんが捜査を主導し、自転車窃盗犯グループを摘発したことがあった。

 別の事件の取り調べで窃盗犯のたまり場だったジャン荘を自ら聞き出し、客を装って2週間ぐらい通った成果だったという。

「かい人21面相」、挑戦状で本部長も挑発

 84年2月、大阪府警本部長に就く。自著で着任時の様子をこう記す。

 「大阪駅では顔なじみの官民の方々に多勢、プラットホームで出迎えて頂いた」

 赴任した矢先の84年3月に始まったのが、「グリコ・森永事件」だった。

 事件は、江崎グリコ社長の誘拐に始まる。社長は兵庫県西宮市の自宅で入浴中、男2人に襲われ、別の男が運転する車で連れ去られた。

 犯人グループは「現金10億円、金塊100キロ」を要求した。その内容を記した脅迫状は、大阪府高槻市の電話ボックス内で見つかった。

 社長は65時間後、監禁先の大阪府茨木市の安威川沿いにある水防倉庫から自力で脱出した。

 だが、グリコ本社や子会社への連続放火や金銭の要求はおさまらなかった。

 「かい人21面相」

 犯人側は脅迫状でそう名乗り、現金の受取先を何度も指定してきた。

 捜査1課は特殊班の捜査員を中心に配置し、犯人の拘束を試みたが、確保することはできなかった。

 現金の受け渡しの際に現場で捜査員に目撃された「キツネ目の男」。重要人物として似顔絵が公開され、広く知られた。

 四方さんも、犯人側の挑戦状で名指しされた一人だ。84年10月7日の消印が押された挑戦状が、朝日新聞を含む報道機関に届く。

 四方さんや警察庁長官、兵庫県警本部長の名前が並べられ、「わしら つかまえられへんと やめなあかんのやて きのどく やな」と書かれ、文末には「四方」にかけて「しかた ありまへんな」とあった。

 挑戦状には、森永製菓の製品に青酸を混ぜるという脅しも含まれ、実際に実行に移された。

 消印が押された7日以降、大阪や京都、東京などのスーパーなどで、青酸入りの菓子が見つかった。

 一連の事件は、犯人側や警察側の動きが大きく報じられ、「劇場型犯罪」と呼ばれた。

 85年8月に犯人側から終結宣言が出る。

 「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」

 終結宣言のちょうど1年後、四方さんは府警本部長を最後に警察庁を辞職。事件は2000年2月、未解決のまま時効を迎えた。

■いつも笑顔の「親分」 元部下…

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