3年ぶりに鎧年越節分祭が復活 栃木

根岸敦生
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 節分の3日夜、栃木県足利市で伝統の「節分鎧年越(よろいとしこし)」が3年ぶりに復活し、甲冑(かっちゅう)姿などの「出陣」者257人が市内を練り歩いた。

 この催しは足利氏4代当主の泰氏が、節分の夜に坂東武者500人を鑁阿(ばんな)寺南大門に勢ぞろいさせた故事を元に、1915(大正4)年に市内の繊維業者を中心とした有志が復活させた。途中、戦争の影響やGHQへの配慮で37年から51年までの中断を挟み、今回が92回目の開催だった。

 繊維の町として栄えてきた歴史を継ぎ、今は広く市民が参加する催事となっている。今年は鎧(よろい)武者155人、少年甲冑隊6人、幕末、足利藩の軍制改革に尽力した文人画家・田崎叢雲の民兵組織にその名をちなむ少年誠心隊45人、市内の中学2年生が参加した立志式武者16人など計257人が参加した。

 主催する立春会の田野雅己会長(69)は先輩に誘われてこの会に入り、自前の鎧兜(よろいかぶと)を購入した。「今はライフワーク」と話す。「足利の商人は新しもの好きではしっこい。モダンな図柄とコストダウンで人気を集めた足利銘仙をはじめ、洋装に変わった戦後はトリコット産地としてやってきた」と振り返り、「行政主体ではなく経済文化人が中心になってきた町。鎧年越も市民の活力の源だ」と話す。

 自前や自作の装束を持つ参加者がいる一方、衣装の多くは東京の高津装飾美術が担当してきた。今年はトラックなど3台で運び込んだ鎧兜などを18人のスタッフが手際よく着付けていった。同社の千崎元さん(54)は「コロナ禍でしたが、やっとこういう催しが復活しました。この鎧年越が皮切りです」と話す。

 市内の剣道サークル・足利剣友会の児童や生徒らも参加した。道中で「八方切り」の型を披露。山田峻大さん(13)=白鷗大付中=や杉本ノエルさん(14)=足利二中=もそのメンバー。2人は今年、剣友会隊の武者として参加。「やはり気持ちが引き締まります」と話した。

 行列の主将は早川直秀・足利市長。今回が初参加だ。大鎧武者の姿で行列の中心に立った。従う兜持ちは高山稔秘書広報課長。鑁阿寺大御堂の前で豆まきの発声をし、その後の勝ちどきの陣では金扇を手に「えいえいおう」と声をあげた。中学から足利を離れ、社会人になって戻ってきた早川市長は「足利の町の長い歴史と伝統を改めて感じた」と、やや紅潮した面持ちで話した。

 市観光協会の副会長も務める田野さんは「歴史の町・足利の市街に年間30万人の観光客を招くのが目標。当日だけではなく、町を活性化する催しにしていく」と話す。先日、NHKで放送された「ブラタモリ」では「足利~足利はときどき天下をとる!?」というタイトルだった。「あれ、気に入っているんですよ。もう一度、天下を取らなければ……」

 国立歴史民俗博物館の田中大喜・准教授の研究では、足利泰時の孫、家時の代以降は鎌倉に拠点を移したものの、鑁阿寺での正月の行事が本領との貴重なつながりとなっていたという。室町期に入ると、父祖の地の鑁阿寺などにあつい支援が寄せられ、地元の人が「大日さま」と呼ぶ鑁阿寺や「学校さま」という史跡足利学校は現代まで存続した。足利の歴史につながる場所での鎧年越は、街の記憶を映している。

     ◇

 鎧年越に新たな気持ちで臨んだ1人に、ワインショップ和泉屋(足利市通3丁目)の泉賢一さん(42)がいた。

 2020年8月に新型コロナウイルス感染症にかかり、即入院。2週間は意識不明、一時はエクモ(体外式膜型人工肺)を着けるほどの重症で、約4カ月の入院生活を経験した。記憶障害が残り、筋力回復のために今もリハビリに通う。

 「鎧年越は出るものではなく、見るものだと思ってきた」と話す。「でも一度は死にかけて、考えが変わった」という。「僕が死んでも足利は続く。自分の人生は葉っぱ1枚みたいなもの」と泉さん。町のために何かを残そうと考えるようになった。

 19年10月に立ち上げた「足利ミッドタウン商店会」の会長。「鎧年越も町の財産。続けていくために参加しようと思った」

 意識を失っていた頃、結婚に向けた家族の顔合わせを予定していた。ずっと回復を待ってくれていた相手と春には結婚するという。

 昔は造り酒屋だった和泉屋の8代目。決意を示す「出陣」だった。根岸敦生

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