甲子園常連校の福島・聖光学院高が、1年で一度だけ独特の空気に包まれる日がある。
あの年もそうだった。
120人超の部員が本塁付近に整列する。グラウンドは重々しい空気に包まれていた。
5年前の夏のことだ。
福島大会が終わり、今から甲子園のメンバーが発表される。福島大会では20人だったベンチ入りが、甲子園では18人に絞られる。
選手たちは、斎藤智也監督の一言一句を聞き漏らすまいと耳を傾けていた。
背番号「1」から順に呼ばれ、「18」番のあとに記録員が発表された。
福島大会で「18」を背負った湯浅京己(あつき)の名前は呼ばれなかった。
「外す理由は本当はないんだけど、投手陣の特徴を考えると、コントロールの不安が若干あるだけで今回ベンチを外すことになった。ごめんな。悪かったな」
メンバー発表の後、斎藤監督は湯浅を呼び、肩をポンとたたきながら語りかけた。
湯浅は気落ちした様子も、ふてくされるそぶりも見せなかった。
「はい、大丈夫です」。そう言って立ち去ろうとする背中に、「こいつらが勝てるように、バッピ(打撃投手)で力貸してくれな」と声をかけることしかできなかった。
湯浅は監督の前では涙をこらえていた。
だが、投手コーチに報告に行った際、こらえきれず悔し涙を流していたという。
三重県から福島・聖光学院高の門をたたいた湯浅は、入学直後から成長痛による腰痛に苦しんだ。ひどい時は歩くのもつらいほどだった。ケガが治るまでマネジャーに転向した時期もある。腰が良くなったのは、入学から1年半が経とうとしていた頃だった。
2年秋、東北大会からチームが帰ってきた時に、湯浅は斎藤監督にこう伝えた。「今日から野球をやらせてください」
監督は言った。「ところでポ…
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