絶対泣かない、決めたあの日 したたか知事の復興10年

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徳島慎也 石橋英昭
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 公用車の窓の外の景色が、突然震えだした。道路が波を打ち、沿道のビルが音を立ててしなっている。

 2011年3月11日午後2時46分。宮城県知事村井嘉浩(60)は、仙台市青葉区で、県庁から東に200メートルの路上で車中にいた。

 助手席の秘書が「きたーー」と叫んだ。瞬間、村井は「宮城県沖地震が来たな」と思った。近い将来、間違いなく起こると言われていたからだ。だがこれは、その予想をはるかに上回る、未曽有の大震災だと後に分かる。

 揺れがいったん収まると、すぐに県庁1階の正面玄関前に車をつけた。職員たちがぞろぞろと外に出てくる。その中を、村井はロビーへと入った。

 その時、天井からこぶし大のコンクリートが落ちてきて、そばにいた秘書の脇すれすれをかすめた。村井が「危ない!」と声を上げるのと同時に、パカーンと床で砕けた。危機一髪だった。

 この揺れでは、エレベーターは使えない。4階の知事室へと階段を駆け上がった。知事室に並べていた県内各地の特産のこけしが、床に散らばっていた。そのまま防災服に着替えると、5階の災害対策本部事務局へ急いだ。

散乱する書類 入らない情報

 部屋に入ると村井は、「すぐに自衛隊に派遣要請を」と、災害派遣要請するよう指示を出した。「まだ被害状況が全く分かりません」と言う職員もいた。だが1995年の阪神・淡路大震災で、自衛隊の出動が遅れたという教訓が頭にあった。

 村井は自衛官出身。拙速でもいいから、とにかく早く対応した方がいいとの判断だった。

 午後3時2分。地震発生から16分後に、県は陸上自衛隊東北方面総監部に電話で災害派遣要請を行った。

 災対本部では、書類が床に散乱していた。大津波警報が出され、職員たちは手書きで全市町村に避難指示を衛星無線ファクスで送った。だが市町村の詳しい情報は、まったく入ってこなかった。

 午後3時10分。村井の携帯電話が鳴った。官房長官枝野幸男からだ。「政府からすぐに人を派遣します。全力を挙げるので、なんでも言ってください」

 村井は「まだまったく状況が分かりませんが、相当大きな被害が出ていると思います。全力でお願いします」と短く答え、電話を切った。

災害対策会議 「フルオープンでいく」

 午後3時半。幹部を集めた初めての災害対策本部会議が、4階の庁議室で開かれた。事前に「マスコミどうしますか」と問われた村井は、「フルオープンでいくぞ」と答えた。

 村井がこの時一番恐れたのは、不正確な情報が口コミで広まり、略奪や暴動が起きることだ。

 いまは電気が止まり、被災者はインターネットで情報をとるのも難しい。ならば、テレビや新聞に流してもらった方が早く正しく伝わる。情報を加工しているなどと疑われないように、ストレートに流そうと判断した。

 この時から、12年3月まで計95回に及ぶ災対会議は、すべて公開で開かれることになった。これが後に、思わぬ副産物を生むことになる。

 県が後日、会議の記録を調べたところ、大混乱の中で、記録が残っていないことが分かった。そこで県は、取材していたマスコミに音声記録の提供を依頼。これらを基に、議事要旨を作ることができたのだ。

 話は午後3時半に戻る。

 村井は災対会議に臨むため、庁議室に入った。室内にはテレビが置かれ、被災状況を知らせるニュースが流れていた。

 すると、黒く巨大な波が目に飛び込んできた。沿岸部をどんどんのみ込んでいく。大津波警報が出ており、大きいのが来ると思っていたが、それ以上の大きさだった。「これは大変なことになった」。村井の顔がみるみる青ざめていった。

2011年の東日本大震災で、未曽有の被害を受けた宮城県。復興に向かって県のトップはこの10年、何を見て、どう考え、いかに行動してきたのか。およそ5時間に及ぶインタビューをもとに、克明に記録します。記事の後半では、震災当日の夕方からの村井知事の動きを追いました。(文中敬称略)

 午後5時ごろから、災対本部…

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