東北「内なる植民地」 中央への抵抗、民俗学者の提言

有料記事東日本大震災を語る

聞き手・高久潤
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 東北はまだ植民地だったのか――。東日本大震災の直後、民俗学者の赤坂憲雄さんが新聞に寄せた言葉です。東北各地を歩き、地元の人たちの話の聞き書きを続けてきた赤坂さん。あれから10年。当時とは違う意味で、「植民地」論を考えるようになった、と語ります。どういうことなのか、聞きました。

「福島の切り離し、五輪めぐる経緯が象徴的」

――「復興」の10年をどう見ていますか。

 「まず、東京電力福島第一原発の事故を抱えた福島と、それ以外の地域では、同じ東北でも災禍の意味が決定的に違いました。東北は歴史的にも災害が多い地域です。地震と津波の被害を元に戻すのが『復興』ならば、議論はそれほど難しくはない。『モデルなき復興』という難題を突きつけられたのは、やはり原発事故が起きたからです」

 「『白河以北一山百文(福島県白河より北は一山百文の価値しかない)』という言葉があります。東北を見下すような表現ですが、原発事故が起きて、まず東北が丸ごと汚れた地域であるかのように見られ、その後は福島だけが『フクシマ』として理不尽なまでに放射性物質と関連づけて語られてきました」

 「思い出してほしいのですが、放射性物質が降っていたエリアは、北関東、東京にも及んでいました。それにもかかわらず、福島に限定するように囲い込み、切り離していった。東京五輪パラリンピックをめぐる経緯が象徴的です」

 ――どういうことですか。

 「もともと、東日本大震災からの復興を掲げた五輪だったはずです。当時の安倍晋三首相は、2013年の国際オリンピック委員会の総会で、東京は安全だ、福島は『アンダーコントロール(制御されている)だ』、と高らかに宣言しました。そうして東京への誘致に成功したわけです。しかし今も、汚染処理水の行き場が決まっていないし、廃炉の行方もわからない。この間の地震でもトラブルが発生しています。とてもアンダーコントロールなどとは言えません」

 「そしていつの間にか、五輪はコロナに打ち勝ったあかし、ですからね。私も委員を務めた文化庁文化審議会でも、五輪が近付くにつれて東北の復興という言葉そのものが後景に沈められていったように感じました。最後は、日本の美を国内外へ発信する『日本博』という巨大な文化イベントがどこからか降ってきてのみ込まれてしまった。コロナ禍の以前の話です。少なくとも中央=国家から地方=東北へと差し向けられる視線は、10年経っても変わっていないと思います」

 ――震災直後の新聞寄稿で「東北はまだ植民地だったのか」と書きました。「植民地」は、具体的な地域を指す言葉としては、とても強い表現です。今も「植民地」だと思いますか。

 「そう思っています。私は1990年代の初めから東北各地を歩き、近代化の歴史の中で東北がどのように扱われてきたのかを、地元の人から聞き書きしてきた。戦前の東北について、明治・大正生まれの老人たちはひそかに『男は兵隊、女は女郎、百姓は米を貢ぎ物としてお国に差し出してきた』と語っていました。その構図がきわめて『植民地』的でした。その後、高度経済成長期を経て東北も十分に豊かになり、その世界は過去に遠ざかった、と私自身が感じていました」

 「ところが東京電力福島第一原発が爆発する光景は衝撃的なもので、戦後の東北が東京に電気やエネルギー、安い労働力を供出してきたという現実をむき出しにしました」

 「植民地という言葉は、古代東北の『蝦夷(えみし)征討』以来の千年の歴史を背負わされています。とても情緒的な強い言葉です。それはきっと、五輪招致のために、福島は東京から『ほぼ250キロ。非常に離れたところにある』と無邪気に言われたことと、まっすぐにつながっています。変わらざる現実です」

 「植民地という言葉を使ったとき、反発や批判を想定しながら、あえて社会を挑発したつもりでした。しかし、反応はほとんどなかった。ただ10年が過ぎて、『植民地』という言葉を、当時とは違う意味で考えるようになりました」

 ――といいますと?

 「東北に限ったことではない…

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