香取慎吾 中西麻耶の義足セミヌードに感じた、ある熱意

榊原一生
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慎吾とゆくパラロード

朝日新聞パラリンピック・スペシャルナビゲーターの香取慎吾さんがさまざまなパラ競技に挑戦する「慎吾とゆくパラロード」。今回は東京パラリンピック代表に内定している、パラ陸上・女子走り幅跳びの中西麻耶選手(35)=阪急交通社=と対談しました。戦っている世界は違っても、ともに苦しい時代を乗り越えてきた者同士。今年への抱負と、パラリンピックを取り巻く「その後」についても語り合いました。

 中西選手とのあいさつを終えた香取さん。するとある物を手渡された。

 《これは何ですか?》

 中西選手が答えた。

 《2012年に発売した私のセミヌードカレンダーです。パラアスリートは競技用義足に100万円以上かかり、海外遠征にもお金が必要です。自分でつくりました。》

 香取さんがページをめくり始めた。

 《すごく、きれいだね。だけど、このカレンダーは本当にお金のため?》

紙面でも

香取慎吾さんとパラ陸上女子走り幅跳びの中西麻耶選手の対談は、1月1日付新年別刷りの「慎吾とゆくパラロード」でも紹介します。

 中西選手が一呼吸置いて、口を開いた。

パラ選手の苦境知って

 《競技でできた借金が約300万円ありました。カレンダーは自費出版なので、さらに借金を重ねました。ただロンドン・パラリンピックに出る競技力はあるのに、お金が理由で出られないなんて……。まずはその苦しい状況を知ってもらいたかったんです。》

 さらに続けた。

 《当時はまだ、障害の部位や義足を隠すのが普通でした。当事者がネガティブな思いを抱いていたんです。なぜ胸を張って生きられないのか。一石も投じたかった。》

 中西選手は06年、ソフトテニスで国体を目指していた21歳の時に、仕事場で鉄骨に右足を挟まれた。足をつなぐか、切断するか。中西選手が選んだのは、切断だった。

 《母親は言ったんです。「足がつながるのになんで望みを捨てるの」って。でも、スポーツができる足じゃなければ私にとって意味はなかった。親には「足を残せばよかったという弱音は一切はかないから」とお願いしました。》

 香取さんは言った。

 《二十歳を超えているから自分の決断でいいんだけど、とはいえ21歳。大人なのか微妙な時期だよね。弱音ははかなかった?》

 中西選手は即答した。

 《ないです。かあちゃんと約束しましたから。》

 07年に義足をつけて陸上を始め、08年北京パラリンピックに初出場。お金を工面し、続くロンドン大会にも出た。だが、当時は今と比べて、障害者への風当たりが強い時代だった。中西選手は振り返る。

障害者らしい振る舞いって

 《障害者になったことで悩んだことはない。だけど、周囲は足のない私に障害者らしい振る舞い、生き方を求めていた。それがずっとストレスでした。》

 カレンダーも「障害、女を売り物にするな」と批判され、落ち込んだ。ロンドン大会は結果が出ず一時は競技から離れた。

 香取さんはつぶやくように言った。

 《パラの世界を変えたい。だけど時代がついてきていなかったんだね。》

 中西選手はうなずいた。

 《後に続く後輩たちのためと頑張り過ぎたかも。》

 香取さんが、自分のことを語り出した。

 《僕らもそうだった。グループ結成は1988年で、すぐにバブル崩壊がやってきた。それまでのアイドルはステージ上で歌って踊っていればよかったんだけど、テレビの歌番組はなくなり、CDも売れない時代に。食っていけなかったよね。僕らをバラエティー番組やお芝居に向けさせたのは、今思えば時代の流れだったんだと思う。》

 中西選手は13年に復帰。きっかけは元コーチで五輪男子三段跳び「金」のアル・ジョイナー氏だった。

 《好きなら陸上をやり続ければいい、障害者というカテゴリーが合わないなら健常者の大会に出ろよって言われたんです。ハッとした。スポーツがしたい、と足を切った時を思い出し、負けてもいいから一からやり直そうと思えたんです。》

パラへの理解、東京大会後も

 現在は複数のスポンサーから支援を受け、フルタイムのコーチを雇えるまでになった。19年、女子走り幅跳びでついに世界の頂点に立った。いま見据えるのは自身4度目となる東京パラだ。

 《楽しみ。準備はできているので。私には夢があるんです。それは世界記録(6メートル01)を出すこと。自己記録は5メートル70ですが、東京で更新できたら格好良くないですか!》

 香取さんは笑顔だ。

 《どの選手もそうなんだろうけど、久々に大変な思いをしてきた選手と出会いました。中西選手のような選手が活躍すれば祭典は盛り上がり、社会が変わるきっかけにもなると思う。それでも、大会の終わった後がちょっと心配。パラへの理解を広げていける仲間をもっと増やさないとね。》(榊原一生)

 中西麻耶(なかにし・まや) 1985年、大阪市生まれ。9歳から大分に移り住み、大分・明豊高ではソフトテニスでインターハイ出場。卒業後の2006年に、事故で右ひざから下を切断。パラリンピックは北京から3大会連続出場。19年11月のパラ陸上世界選手権女子走り幅跳びで優勝し、東京パラ代表に内定。5メートル70のアジア記録保持者。阪急交通社所属。

過去に登場した陸上・井谷俊介選手

 オンライン対談でしたが、言葉や態度からパラスポーツを心の底から応援しているのが伝わってきました。それも目先の行動ではなく、パラ大会後をしっかりと見据えて。うれしかったのを覚えています。昨季は本来の力を発揮できませんでしたが、もがき苦しんだ経験は必ず生きると信じています。選手として、人間としてさらに成長を遂げて、本番で結果を出せるように頑張ります。

パラ水泳の富田宇宙選手

 慎吾さんとの2度目の対談は昨年8月。五輪が延期されたのにショックの小さい自分自身に「金メダルへのこだわりが薄いのでは」と引っかかっていた時です。自然体な慎吾さんに話を聞いてもらう中で「自分の立場、役割に自分を合わせる必要はないんだ」と思うようになりました。自分にないものを考えて追い込むのではなく、持っているものを大事にしよう。今は、そう考えています。

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