岐阜空襲 眺めていた兵隊 語り継ぐ戦争

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編集委員・伊藤智章
【動画】昭和20年7月、市街地を丸焼けにした岐阜空襲の恐怖を話す大脇雅子さん=伊藤智章撮影
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弁護士 大脇雅子さん(83)

 1945(昭和20)年7月、岐阜空襲の時、10歳だった。父は軍属としてインドネシアに渡り、うちは国民学校教師の母と弟、祖母、叔母、私の5人でした。私は母と同じ学校に通ったが、軍隊行進が苦手だった。常駐する兵隊の命令で、歩調が合うまで何度もやり直しをさせられた。

 終戦間際の当時、各務原がやられ、次は岐阜、といううわさも飛んでいたそうだ。母は警戒警報と同時に学校に向かった。(天皇の写真を納めた)奉安殿を守るためです。

 すぐ空襲警報です。どかん…

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