(ナガサキノート)失った右目、左目で見た街の炎

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岡田将平・36歳
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深堀京一さん(1939年生まれ)

 「けい坊、けい坊」。自宅の下敷きになり、気を失っていた男の子の耳に、自分を一生懸命に呼んで叫ぶ母の声が聞こえてきた。けがをしていたが、光がもれる方をめざし、すき間から外にはい出した。

 1945年8月9日、爆心地からわずか700メートルほどの長崎市大橋町。当時5歳だった深堀京一(ふかほりけいいち)さん(78)=福岡市南区=の記憶だ。母は被爆後、まもなく亡くなり、自分を呼んでいた姿が最後の思い出として残った。きょうだい5人も失い、放射線の影響か、深堀さん自身も体調を崩し、命を危ぶまれた。戦後も、悪性リンパ腫などに苦しんだ。

 向かい合って耳を傾ける私の目を見据え、話をしてくれた深堀さん。その目には私の姿は見えていないという。右目は原爆でガラスが刺さり失明、左目の視力も近年落ち、ほとんど見えなくなったからだ。

 「こんなに長生きするとは思わなかった」と振り返る半生を伝えたい。

 深堀さんは、長崎市大橋町で育った。8人きょうだいの6番目。クリスチャンの家庭で、深堀さんも日曜日には、浦上天主堂に通った。父は三菱製鋼所に勤めていた。母は野菜などを植えていたことを覚えている。「これだけの子どもをよう育てたな」と感じている。

 1945年当時、深堀さんは…

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