沖縄「基地」禍 日米安保の現実、目背ける本土

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岡田玄 岩崎生之助
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戦後の原点

 地上戦で約20万人が命を落としたとされる沖縄。米国は戦後、経済復興とセットで基地建設を進め、平和憲法を手にした日本本土は、基地が沖縄に集中していく現実から目を背けた。その構図はいまも島に影を落とす。文書と証言から基地問題の源流をたどった。

冷戦、消えた返還論

 米軍による占領から2年あまりが過ぎた1947年10月14日。沖縄の帰属をめぐる分岐点となった、ある文書が米国務省で作成された。

 〈沖縄に軍事施設を求める前提で講和交渉を行うべきである〉

 国務長官らに宛てた報告書だった。まとめたのは、戦後に新設された政策企画部。部長は、対ソ封じ込め政策を主導したジョージ・ケナンだった。

 半年ほど前、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官、マッカーサーが憲法制定や戦後改革が順調に進んだことを踏まえ、日本と早期講和を結ぶ用意があると表明していた。

 沖縄については、戦略的重要性から米国による保有を主張する米軍部に対し、国務省は日本に返還すべきだとの立場をとってきた。〈琉球列島の取得は、自国にも他国にも認めなかった領土不拡大の原則に反する〉(46年6月24日付米公文書)と考えていた。

 だが、時代は大国間の協調から冷戦へと移ろうとしていた。米ソの緊張が急速に高まり、中国でも共産党が勢力を伸ばしていた。米国は共産主義の「封じ込め」にかじを切った。

 48年3月、ケナンはマッカーサーを東京に訪ね、対日政策の方向性を確認した。マッカーサーは、西太平洋の安全保障には沖縄に空軍力を配備することが死活的に重要だとしたうえで、こう語ったという。

 〈沖縄に十分な兵力を置けるなら、アジア大陸からの防衛のための兵力を日本本土には求めない〉(48年3月5日、ケナンによるマッカーサーとの会談記録)

■経済再興、依存生む…

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