夏目漱石「吾輩は猫である」133

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 昔し希臘(ギリシャ)にイスキラスという作家があったそうだ。この男は学者作家に共通なる頭を有していたという。吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とは禿(はげ)という意味である。何故(なぜ)頭が禿げるかといえば頭の営養不足で毛が生長するほど活気がないからに相違ない。学者作家は尤も多く頭を使うものであって大概は貧乏に極っている。だから学者作家の頭はみんな営養不足で、みんな禿げている。さてイスキラスも作家であるから自然の勢禿げなくてはならん。彼はつるつる然たる金柑(きんかん)頭(あたま)を有しておった。ところがある日の事、先生例の頭――頭に外行(よそゆき)も普段着もないから例の頭に極ってるが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来をあるいていた。これが間違いのもとである。禿げ頭を日にあてて遠方から見ると、大変よく光るものだ。高い木には風があたる、光かる頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽の鷲(わし)が舞っていたが、見るとどこかで生捕(いけど)った一疋の亀を爪の先に攫(つか)んだままである。亀、スッポンなどは美味に相違ないが、希臘時代から堅い甲羅(こうら)をつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうする事も出来ん。海老(えび)の鬼殻焼(おにがらやき)はあるが亀の子の甲羅煮は今でさえない位だから、当時は無論なかったに極っている。さすがの鷲も少々持て余した折から、遥(はる)かの下界にぴかと光った者がある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落したなら、甲羅は正(まさ)しく砕けるに極(き)わまった。砕けたあとから舞い下りて中味を頂戴すれば訳はない。そうだそうだと覗(ねらい)を定めて、かの亀の子を高い所から挨拶もなく頭の上へ落した。生憎(あいにく)作家の頭の方が亀の甲より軟らかであったものだから、禿はめちゃめちゃに砕けて有名なるイスキラスはここに無惨の最後を遂げた。それはそうと、解(げ)しかねるのは鷲の了見である。例の頭を、作家の頭と知って落したのか、または禿岩と間違えて落したものか、解決しよう次第で、落雲館の敵とこの鷲とを比較する事も出来るし、また出来なくもなる。主人の頭はイスキラスのそれの如く、また御歴々の学者の如くぴかぴか光ってはおらん。しかし六畳敷にせよいやしくも書斎と号する一室を控えて、居眠りをしながらも、六ずかしい書物の上へ顔を翳(かざ)す以上は、学者作家の同類と見傚(みな)さなければならん。そうすると主人の頭の禿げておらんのは、まだ禿げるべき資格がないからで、その内に禿げるだろうとは近々(きんきん)この頭の上に落ちかかるべき運命であろう。して見れば落雲館の生徒がこの頭を目懸けて例のダムダム丸を集注するのは策の尤も時宜(じぎ)に適したものといわねばならん。もし敵がこの行動を二週間継続するならば、主人の頭は畏怖(いふ)と煩悶のため必ず営養の不足を訴えて、金柑とも薬缶(やかん)とも銅壺(どうこ)とも変化するだろう。なお二週間の砲撃を食(くら)えば金柑は潰れるに相違ない。薬缶は洩(も)るに相違ない。銅壺ならひびが入(い)るにきまっている。この睹(み)やすき結果を予想せんで、あくまでも敵と戦闘を継続しようと苦心するのは、ただ本人たる苦沙弥先生のみである。

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 【イスキラス】アイスキュロ…

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