普天間なぜ混迷 日米合意20年、三つの視点でみる変遷

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吉田拓史 上遠野郷 木村司 二階堂勇 松川敦志
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 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の返還に日米両政府が合意してから、12日で20年。返還は当初「5~7年以内」とされたが、いまだ実現していない。なぜ、混迷したのか。「三つの視点」から振り返る。

【1】県内移設の条件つきだった

 「この決断は、沖縄の方々の強い要望を背景として下された」。1996年4月12日。首相官邸で米軍普天間飛行場の返還合意を発表した橋本龍太郎首相(当時)は、こう語った。

 その3日後、普天間飛行場の北隣にある普天間第二小学校。仲村元惟(もとのぶ)校長は全児童450人を体育館に集めた。「あの米軍基地がなくなりますよ」と伝えると、拍手が起きた。

 返還は「県内移設」の条件つきだったが、仲村校長は「県内に大きな施設を造るようなことはないだろう」と思っていた。沖縄戦で父を失い、戦後は米兵に10代の娘が襲われかけた。県民感情からすれば、県内で新たな負担を増やす難しさは自明だった。

 ただ、地元紙は当初から懸念を示していた。4月13日付沖縄タイムスはこう指摘した。「移設先の問題で先送りされる可能性も否定できない」

 嘉手納基地との統合、うるま…

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